最近、一年ほどぶりにCDアルバムを買いました。ほとんど、普段はレンタルしてパソコンに落とすのですが、これはと思ったアルバムは1年に数枚だけ買うことがあります。 買ったのは、阿久悠のトリビュートアルバム『歌鬼』です。作詞家阿久悠の没1年の追悼のために、発売されたものです。
阿久悠は作詞家の域を超えた、作家であることはおそらく日本人の誰もが理解していると思います。ただ、作詞家としての評価と実績の栄光が強いため、以外に彼の作家活動に関しては知らない人も多いと思います。1980年代に『瀬戸内少年野球団』では直木賞候補、同作品で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞しています。
彼の作詞家としての活動もまた、虚と実の入り交じったバブル時代の風潮を色濃く残しています。そもそも、最近の作詞や作家、映画などの芸術活動において、感性や想像性を主体とした作風よりも、実体験をもとにされた作品が受け入れられる傾向にあります。その理由は、社会の熟成によるもので、高度成長が終わった日本において、想像力というのはナンセンスなセンチメンタルな感情でしかなくなってしまったのです。大人や子供が夢を持てなくなった時代と言っても過言ではありません。しかし、70年代80年代は夢を現実に変えることのできる、想像力=創造力の時代だったのです。
それらの社会性が、大衆芸術という分野においても色濃く反映したのは言うまでもありません。阿久悠の作風も、叙情性や想像性、感傷性を歌詞に映し出し、聴き手のイマジネーションを鮮烈に刺激します。
今、そんな阿久悠の歌詞を聴き評価する若者は少ないです。なぜなら、感傷的なメッセージ性の歌詞は、鼻で笑われるだけで、大人たちの古き良き時代のノスタルジックでしかないからです。ただ、夢の無くなった時代だからこそ夢のある歌詞に心を求めても良いのではないでしょうか。僕自身は、常に夢を見ながら人生を送ることをモットーにしています。空想や夢のない人生など、まさにデジタル社会ならぬデジタル人生でしかないのですから。
阿久悠の歌詞が心に響く。そんな、感傷性こそ大事にして生きたいものです。
からだの傷なら なおせるけれど
心のいたでは いやせはしない
小指に食い込む 指輪を見つめ
あなたは昔を 思って泣いた
時の過ぎゆくままに この身をまかせ
男と女が ただよいながら
もしも二人が 愛せるならば
窓の景色も かわってゆくだろう
(時の過ぎゆくままに 作詞:阿久悠)
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| ■ 作家談義16「阿久悠」 |
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【コラム】 読書三昧 |
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