現代において職業作家と呼べる作家は少なくなっている。その理由はいくつかあるだろう。一つは、作家という職業が社会において生活水準を満たす仕事であるのかどうかという問題。一つは、作家になるための明確なプロセスがないという理由。そして、最大の理由ともいえるのが小説家としての器の大小ではないだろうか。若くして作家となった者が、その後何十年とコンスタントに作家を続けられるかどうか。それは、取り巻く社会状況も当然のことながら、本人の資質が大きく関わってくる。
しかし、知識や感情は作品を生み出すごとにその糧として枯渇していく。ならば、生涯作家と呼べる人たちは、それをどう補っているのか。その答えは、社会に対する目である。好奇心や探求心、そしてジャーナリズムとう名の目を持っているかどうかが、職業作家となれるかどうかの境目であると僕は考えるのだ。
そう言った点において、重松清という作家は職業作家の一人であろう。代表作は『エイジ』『カカシの夏休み』『ビタミンF』など、映画化やドラマ化された作品が並ぶ。2000年に『ビタミンF』で直木賞を受賞後、現在も精力的に作品を発表している。彼の作品は、社会問題という影のテーマを取り扱う反面、曇り空の風景から一転して明るい太陽の光が差し込んできたかのような感動を呼び起こしてくれる。そこには、必ず涙が読者の頬をつたい、鮮やかなカタルシスを与えてくれるのだ。
特に、4、50代親父世代の評価が高い。人に歴史ありという言葉の重みと同じく、年をとった男の背中には重く深い人生観が背負われている。それをスッと切り出し、読者の心を釘付けにするのだ。平凡でありながら、非凡である大衆。生きていることの意味や価値を、彼の作品は気づかせてくれる。
彼のそんな社会に対する視点は、フリーライターとしての経験が生きているのではないだろうか。小説家として世間の注目を浴び始めたのは、30代に入ってからである。前出の浅田次郎を始め、ここ最近に活躍している職業作家たちの多くは、10、20代に異なる職種で社会と接している。むしろ20代に小説家としてデビューしたものの多くは、30代で消えていく。現代において、作家という職業が、いかに出版社のスケープゴートであるのかが伺えるだろう。
今後も、社会に対するシビアな目を持って、多くの作品を生み出していってもらいたい。重松清は、そう強く願う作家の一人である。
生きるために胸に思い描くものと、
目覚めれば消えてしまうものが、
何故同じ「夢」という言葉なのだろう…。(定年ゴジラより)
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| ■ 作家談義14「重松清」 |
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【コラム】 読書三昧 |
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