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Glass Factory 代表取締役社長 乾 昌行

関西のファッションシーンにおいて、“アイウェア”という概念を広めることとなったグラスファクトリー。

月日を重ね、大きな影響力を持つようになると同時に求められるニーズに対し、創業時より変わらぬスタンスとして品質本位でのセレクトを貫き、“ファッション”としてのアイウェア・コーディネイトを提案し続けた10数年間。

代表取締役社長である乾氏が、“本当に自分がやりたかった事”としてスタート。

創業に至るまでのプロセスこそが、現在のグラスファクトリーの理念として深く根付いている。


「(生まれ育った)生野区は、眼鏡が地場産業だったんですよね。

私もレンズ屋の息子として生まれて、小学校に入ったぐらいから家の手伝いさせられてましたし、自分もレンズ業界で生きていくと思ってたんですよ。眼鏡学校に通い、学校を卒業して半年ぐらいで、1軒目の眼鏡店をオープンしました。

それが21歳の時ですね。

最初の1年目までは良かったんですけど、そこからだんだん良くなくなってきて。

1軒目では給料が出なくて、このままだと小さくまとまってしまうと思ったんで、それじゃあってことで2軒目を3年目にだしたんですよね。

でも、駄目だったんですよ。」


若くしてショップ経営者としての道を歩み出した乾氏。一見すれば順風満帆なスタートを切ったかにみえるが、その実情は非常に困難を極め、「ほんとに苦しかった」20代前半を過ごすこととなった。

しかし不振に見舞われながらも、常に前を向き2軒目をオープンさせる。「自分がひょっとしたら失敗するんじゃないかと考えてたら、多分やれてないだろうし、それを覚悟して実家も応援してくれてたんでね。」と遠い記憶を思い出しながら、優しい口調で話す。

そして長い時期を苦難を乗り越えたからこそ、ビジネスチャンスを掴むことになる。「厳しい時期だったんですけど、28歳の時に特殊加工というのをやりだして。

それが3ヶ月目ぐらいからブームみたいになってね。

家に帰れないぐらい忙しくなって。

それが長く続いたんですよね。」その後も順調に業績を伸ばし、販売店を3店舗まで拡大させることになる。


しかし乾氏に再び試練が訪れることとなる。神戸を中心に展開していたショップが、1995年の阪神大震災で被災。

葛藤の末、「どうせ辞めるんだったら、ほんとに自分の思う、自分の納得する眼鏡屋をやってみようか」という答えに至り、1996年にグラスファクトリーを立ち上げることになる。「若い頃からファッションにすごく興味があったんで、オシャレな眼鏡屋をやりたいとずっと思ってて。

それを最後にもう一回やってみようと思ったんですよ。それがグラスファクトリーで、当時38歳でした。

それまでも(日本での眼鏡に対する認識に)違和感はあったんですよ。当時の関西の眼鏡屋さんはディスカウンターばっかりだったし、世界のトレンドとは全くリンクしてなかった。

学生時代にも医療用具として教えられてきたんでね。

前から違和感を感じながらも、そういうことに気づいてなかった。

それに気づいたことが大きかったですね。」


幼い頃に志した夢を追いかけ続け、30代を迎えることで冷静に周りがよく見えるようになったと話す乾氏。長年培ったセレクト眼と、さまざまなプロセスを経て理想像を築き上げ、38歳にしてようやく理想と現実が合致するグラスファクトリーを立ち上げる。しかし彼の掲げる理想というのは、あくまでも、トータルコーディネイトを完成させるアイウェアの提案である。「まだまだこれからですね」と、シーンの動向を冷静に話す姿はまさに仕事人の顔であり、落ち着いた佇まいながらも力強さを感じる。そんな乾氏の次なるヴィジョンは世界へと向いている。まずは卸業としてアジアマーケットへ。


「日本人と同じような骨格を持つアジア諸国も、日本と同様にアイウェアについてはまだまだ発展途上にあるので、そこにもビジネスチャンスがあるんじゃないかと。

グラスファクトリーがなぜ海外でと考えたときに、ヨーロッパブランドにはカラフルで洋服の色に合わせて選ぶブランドがあるんですよ。でも日本には今のところない。

掛け心地がいいとか、造形美が非常に美しい眼鏡というのはあるんですけど、『造形が美しい=オシャレな眼鏡』ではないと思います。

私達が大切にしているのは、“トータルコーディネイトの中のアイウェア”なので。

それであれば、まずはアジア人の顔に合う、骨格に合う、私たちの眼鏡が通用するか試してみたいという思いがあります。

日本人の作るものって繊細ですよね?

 だからこそ、優れた精巧さはヨーロッパ人にも伝わるんじゃないかと。

ヨーロッパ人の感性と日本人の感性を比べて、劣っているとは全然思っていないんですよ。大量生産・大量消費で衰退していると言われているとは聞きますが、私はMADE IN JAPANの眼鏡が決して劣っていると思っていないんで。

負けたくないですよね。」





ターニングポイント1(21歳)

21歳の時に自身初となるショップを、阪急・園田にオープン。経営者としての第一歩を踏み出した若かりし頃の分岐点。


ターニングポイント2(28歳)

厳しい時期を抜け、ようやく光が見え始めた年代。忙しい時期でもあったが、事業が大きく軌道に乗りはじめた。


ターニングポイント3(38歳)

38歳にして、グラスファクトリーを立ち上げる。これまでに培ってきたセレクト眼が大きく華咲くこととなった。


■Q&Aアンケート

Q 幼い頃の夢

A 会社経営者

Q 尊敬する人物

A 父

Q いまの人生の満足度は

A 75% (残りの25パーセントはまだやり残した事があるそう)

Q 一番大切なもの

A グラスファクトリー

Q 心に残る言葉

A 自灯明

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